松尾篤興のブログ「閑話放題」

今迄にない科学的な整合性から導かれた正しい発声法から、日本の政治まで、言いたい放題の無駄話。

黒い星から来た歌手達 第3回 イタリア歌劇団とベルリンオペラ


1959年、1961年のイタリア歌劇団公演はマリオ・デル・モナコ来日記念公演とでも言って差し支えないでしょう。世界のモナコが立て続けにオテロ、カルメン、アンドレア・シェニエ、アイーダ、カヴァレリア・ルスティカーナを歌ったのですから、例えスカラでもこの様な演目に遭遇するとは考えられぬ事ではないでしょうか。おまけに1961年のアンドレア・シェニエではレナータ・テバルディとの共演が見られると言う贅沢さ、スカラ座東京シーズンと呼ばれたのも無理はありません。
1959年オテロの時私はコーラスをやっていましたが、オケ合わせは内幸町のNHK公開番組ホールで行われ、オテロとイヤーゴの二重唱から始まりました。オテロは言わずと知れたマリオ・デル・モナコ、イヤーゴはティート・ゴッビ。私は公開ホールステージの脇で聴いていましたが、最後のDio vendicatorのb4を聴いた時、あまりの迫力に身体の震えが止まらなかったほどでした。
人間というものはおかしなもので、余りにも予想を超えた衝撃を受けると咄嗟の判断がつかないと言うのかパニック状態に陥り思考停止になってしまう様で、実際私もそうでした。モナコの声を聞いた時、本来なら「どうやってあの声を出すのだろう」と考えるのでしょうが、即座に「何を食べているのだろう」と言う思いが頭を過ってしまいました。
この様な話を聞くと、如何に当時の声楽教育が発声に関する理論的な教育を怠っていたかが分かろうというものです。大きな声、響く声はどの様にすれば習得できるか、たったこれだけの簡単な論理が当時の若者達の知識として存在しなかった、と云うよりこれらの知識を教える教育者も存在しなかったと言った方が現実味を帯びてくるのではないでしょうか。
マリオ・デル・モナコの来日に呼応するように1963年にはベルリンオペラが日本にやってきました。出し物はフィデリオ、フィガロの結婚、ヴォツェック、トリスタンとイゾルデ、この年完成した日生劇場の杮落しとしてベルリンオペラは上演されたのです。
1963年はイタリア歌劇団も来日し、トラヴァトーレ、蝶々夫人、セヴィリアの理髪師、西部の娘を上演しましたので、この年の秋は多くのオペファンが東京文化会館と日生劇場の間を右往左往したのは言うまでもありません。
イタリア歌劇団がマリオ・デル・モナコの来日記念公演とすれば、ベルリンオペラで匹敵するスターは何と言ってもデートリッヒ・フィッシャーディスカウの名前をあげなくてはなりますまい。両者ともにオペラが初来日だというのも何か因縁めいた気がしなくもありませんが、バリトンからテノールへ転向したモナコとバリトンではありますが、ヘルデンテノールと言われてきたフィッシャーディスカウは全く同じ様な声域の歌手と言っても過言ではないと言えましょう。現に両者共「パリアッチ」のプロローゴをレパートリーとして選んでいる位ですので。
どちらが優れていると言う話ではなく、アペルト唱法のフィッシャーディスカウとアクート唱法のモナコとを聴き比べる事によって、アペルトとアクートとの実際を体験する事は非常に重要な事だと思いますのでYouTubeにアップされている音源を載せておきます。


Dietrich Fischer-Dieskau



Dietrich Fischer-Dieskau; \"Si può? Signore!\"; Pagliacci; Ruggero Leoncavallo


Mario del Monaco



Mario del Monaco - Si Puo, Si Puo? (Il Pagliacci) - 1959 (USSR, Studio)


こうして聴き比べてみると、リートの国ドイツとオペラの国イタリアであったからこその発声法の違いが見えてくるのではないでしょうか。ピアノ伴奏で語られるリートと、時には100名を越すオーケストラを前にスカラ座の天井桟敷まで声を届けるオペラでは、自ずとメソッドが異なるのは必然の話ではありませんか。
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