松尾篤興のブログ「閑話放題」

今迄にない科学的な整合性から導かれた正しい発声法から、日本の政治まで、言いたい放題の無駄話。

Googleマップを開いて愕然!

Googleマップを開くとその土地の写真などを見られるので、いつも重宝して利用している。
太平洋戦争末期、多分1943,4年頃だろうか、アメリカの日本空襲が激しさを増してきたので、博多の中心地天神1丁目(旧橋口町)で料亭を営んでいた我が家は博多郊外の六本松へ疎開する事となった。
1945年6月福岡は大空襲に見舞われ、福岡市の中心部は殆ど被災し焼け野が原。当時の状況は福岡大空襲の記憶全編に綴られている。
1944に公開された木下恵介監督の映画「陸軍」のラストシーンで主演の田中絹代さんが赤煉瓦文化館(旧日本生命)の前を駆け抜けるシーンのバックに料亭「八百重」が写っているのが何とも懐かしいが、これが旧福岡市街の最後の姿となった。
疎開先の六本松での生活は西南学院中学まで続いたが、何と楽しい生活の連続だったろう。家の前には小さな小川が流れ、小鮒掬いやザリガニ釣りには事欠かない。旧制福岡高等学校、いわゆる福高の隣だった疎開先は毎年開催される福高寮祭をみるのも楽しみの一つだったし、大濠公園まで徒歩で通えたため休みの日は公園の釣り場へ出かけるのが生活の一部でもあり、家の前にあった田圃の先には西日を浴びて煙を吐きながら通る筑肥線の小さな蒸気機関車が今でも脳裏に焼き付いている。
その旧制福岡高等学校も2009年にはキャンパス廃止となり、福岡市科学館が建っているし、国鉄筑肥線も廃線になってしまった。更にあろう事か疎開先の建物が無い!
目の前に広がるセブンイレブンの建物と駐車場が虚しく映るだけだ。




映画「陸軍」ラストシーン
赤煉瓦文化館の前を走り抜ける田中絹代さんの後ろに料亭「八百重」の建物が見える。



現在の疎開先跡地

数年前までの疎開先西面、右端のマンションは跡地中央に写っている。

疎開先北面、家の前には小さな小川が流れていた。