松尾篤興のブログ「閑話放題」

今迄にない科学的な整合性から導かれた正しい発声法から、日本の政治まで、言いたい放題の無駄話。

根本伸子リサイタル顛末記


2016年の暮、根本伸子さんが我が家にやってきて、2018年には古希になるので記念リサイタルを開くと云う計画を聞かされた。
年が明けて一応プログラムと出演者が決まったとの連絡を受けたので4月からレッスンを始める事とした。
始めては見たものの彼女が選んだ曲の難易度の高さに悩む日々が続く。特に小林秀雄氏作曲の「五つの華」は彼がよくサブタイトルに使う演奏会用アリアの形式を超える難易度の高さで、いくら腕に覚えのあるアマチュア声楽家でも、おいそれと手を出せる代物ではない。例えば同氏作曲の演奏会用アリア「すてきな春に」よりも調性は複雑だし、リチタチーヴォセッコだけではなく、ア・コンパニアートやカデンツァのついた曲もある。
初めのうちは音程のチェックや歌い方の指導に明け暮れたが、曲の難易度がこれほど高くなると、従来の様な多少トレモロのかかった声では、この曲のスケールの大きさを表現するにはあまりにも基本的な発声技術の不足が露呈してしまう。
そこで今まで月1回のレッスンを毎週1回に増やし、発声の基本的な部分の強化に充てる旨、彼女に相談した。勿論発声で増えたレッスンフィーは無償。初めはタダで教わるのは心苦しいと言っていたが、今回のリサイタルを成功させるためには絶対必要な条件だと云う説得に同意してくれた。
週1回のレッスンを6か月に渡って集中的に継続するという事はおよそ大学の専門授業の年間スケジュールに匹敵するくらいの効果は上がると読んでいた私は、思い切って彼女の発声技術のフルモデルチェンジに取り掛かった。
先ず従来の癖、つまり軽いトレモロを伴う声を修正するためには、喉に不必要にかかるストレスを取り除くことだ。大部分の原因は、より大きな声を出そうとしてブレスにプレッシャーを掛け、ブレスの勢いや圧力で高音域を出す、いわゆる押した声になっているのが原因にちがいない。そこで一律なブレスの習得として寝息による声の安定と咽喉元のストレス除去に取り掛かった。いわゆるビブラートのない声を作れば従来のトレモロは影を潜める筈だ。
しかし寝息だけでは大きな声は出せない。大きな声という概念は往々にしてブレスの勢いや増量によるメカニズムを伴い、怒号つまり歌声ではなくダミ声となる、楽音ではない雑音になりかねない。そこで大きな声というよりも通る声というイメージを持たせることに専念した。より具体的な方法としてはブレスの量や圧力を増やすのではなく、結果的に増える方法をとれば怒号のメカニズムとは決別できる筈だ。そこで持ち出したのが声門閉鎖、いわゆるキューゾである。
ゴムホースの橋を摘めば水の量は同じでも水の勢いは増す。つまり声門を閉じれば声のスピードは上がり、意識的にブレスの量や圧力を増やさなくても必要十分な効果は期待できる。ただし声門を閉じる動作に咽喉元の余分な力が加われば、いわゆる喉声という最悪の事態を招くのは避けられまい。ここは意識的な筋肉の捜査ではなく飽く迄も反射を利用すべきで、唾を飲み込もうとしながら声を出せば喉頭蓋は閉まり声門も閉鎖され、アインザッツの効いた鋭い響きが得られる。このように反射を利用した方法で寝息、ノンビブラートからキューゾ、アインザッツの効いた鋭い響きの連続歌唱を訓練する。
これらの歌唱技術を駆使して更に低音域から高音域まで一律で華麗な声の響きを実現するのが、ベルカントでありイタリアの正統派の発声法でもあるが、そのために避けて通れないのがアッポジオ、声の支えの問題ではある。
アッポジオの原理は高音域になると声帯は伸びて薄くなり、更に高い音では声帯は短く縮まり甲高い響きになる人間の属性に意図的な変化を加え一律で華麗な声の響きを作り出そうとする試みに他ならないが、このような場当たり的な処理ではなく一貫した方法、つまり声帯全体を引き延ばすことによって元ある音色に変化を齎す事なく、音域の変化に対処しようという考え方でしかない。具体的に言えば甲状軟骨を前傾させる事によって声帯全体を引き延ばす事によってより高音域の音色の安定を図ろうとするもので、言って見れば絃楽器の弦を巻き上げれば音はより高くなる原理を利用したものと言えるだろう。
甲状軟骨を前傾させるためには幾つかの筋肉が存在するが、中でも胸骨甲状筋は著しい成果を齎すため、これに繋がる身体の各筋肉の使い方が重要な要素となる。もともとブレスは収縮した横隔膜が解放される事によって下方へ膨らんだ腹部が元に戻る、つまり上方へ向かう事によって肺の空気が呼気として利用できるものだが、これと時を同じゅうしてアッポジオは声帯に繋がる筋肉を下方へ引き降ろしていかなければならない齟齬が習得の困難に結びつく。
今回のフルモデルチェンジは完遂したとは言えないが、多くの人達に「根本さんは年を取る毎に声が良くなる」と言わせただけの結果は出せたのではなかろうか。
勿論これだけの作業を短期間でやってのけた彼女の能力の高さと感性の鋭さを抜きにしてこの話は成り立たないのは当然の話ではある。

     

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