松尾篤興のブログ「閑話放題」

今迄にない科学的な整合性から導かれた正しい発声法から、日本の政治まで、言いたい放題の無駄話。

黒い星から来た歌手達 第8回 続ブレスの話

 舞台での仕来たりとして云われていることで「台詞は歌うが如く、歌は喋るが如し」と云う教えがありますが、台詞は言葉として聴き取るためには明瞭に発語しなければならず、つい滑らかに表現できぬものとなってしまい、歌はメロディーに乗って滑らかに歌う事は出来ても歌詞が不鮮明になり、歌の内容が伝わらなくなりがちになる事を諭したものでしょう。
 レガート唱法と云う言葉が普遍化しているか否かは与り知らぬ所ですが、レガート奏法と云う用語があるくらいですので、レガート唱法が存在しても別に不思議ではありますまい。このレガート唱法をドイツリートに取り入れて世界のトップスターになったDietrich Fischer-Dieskauこそ言葉と旋律の同期を完成させた先駆者と云えるでしょう。
元々ドイツ語は他の西欧の言語とは違って子音や母音の多い言語であり、ポルシェやベンツ本社所在地StuttgartやAngstschweiß(冷や汗)の様な子音連結の言葉も多く、まともに発音すればアドルフ・ヒットラーの演説の様な調子になりかねません。例えばシューベルトのWinterreise(冬の旅)の第一曲Gute Nacht(おやすみ)にしても、ひと昔前でしたら雪を踏みしめるような遅いテンポの重々しい若者の旅立ちだったのですが、フィッシャー=ディスカウは可なり速いテンポで雪の上を滑る様な滑らかなレガートでこの曲を表現しています。
Fremd bin ich eingezogen,Fremd zieh' ich wieder aus,が出だしの歌詞ですが、Fremdのdの発音は殆ど表現せず、bin ichは明らかにnichと連音 wieder ausのderausを連音にはせず、上手く音を繋ぐ繊細さをみせていますし、次のDer Mai war mir gewogen Mit manchem Blumenstrauß.はセンテンスの通りワンブレスで歌っていて、これらの配慮が現代的なスピード感を持ったレガートな音楽を感じさせるのではないでしょうか。更に中音域から少々高めに至る辺りの思い切った明るいmezza di voceの音声、従来この辺のmezza di voceの声は、薄く平べったい声になるのを嫌って逆に少し暗めに歌う、当時言われていたデックングと云うのでしょうか、これには変に違和感があったものですが、フィッシャー=ディスカウは物の見事にアペルトな、しかし引き上げ筋が素晴らしく効いた豊かな響きの声で、この準高音域をコントロールしているのも流石「最も神に近い男」の仕業だと思わざるを得ません。
昔から彼のこの様な思い切った歌唱技術を「怠け者のテノール」と呼び、バリトンでも持っている音域が広いから地のままで歌える、などと陰口をきかれた事もありましたが、あの明るく薄い声を響かせる為には並大抵の引き上げ筋では済まされないのが分からぬ人達の見解でしかありません。現にこの様な高音域を歌う時に彼の後頭部の皮膚が数センチも上へ移動するのを目撃した人も居るのです。
歌を歌う為の要となるのは声帯、ブレス、筋肉、発語ですが、この四つのうちどれが欠けても良い歌が歌えないのは当然の事であり、その意味に於いてもメロディーと歌詞は如何に同期し、両者が一つになって表現される事によって歌の魅力も倍増するのに留意し、研鑽を積まなければなりません。
その中でとりわけブレスの重要性を取り上げるとすれば、ブレスは一貫して適切な量と圧力を維持しながら声帯をスムーズに通過することによって楽音としての音声が保たれるのを堅持する働きを求められるのではないでしょうか。つまり恣意的に量や圧力に変化を求めず、在るが儘の自然な呼吸の形が再現されてこそ、ブレスの真の役目は果たされると考えるべきなのです。
では具体的にどの様な形のブレスが基本となるべきでしょう。それは人の寝息です。寝息こそ人体に最も優しい、ストレスのない呼吸法と云えましょう。ブレスの話はまだまだ続きます。
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