松尾篤興のブログ「閑話放題」

今迄にない科学的な整合性から導かれた正しい発声法から、日本の政治まで、言いたい放題の無駄話。

黒い星から来た歌手達 第28回 オペラ生活40年を振り返る 𝐈


私がオペラに出演させて頂いたのが1963年28歳の時、二期会公演の「マルタ」トリスタン役でデビューしたのが初舞台です。
以降2003年横浜市シティーオペラ公演「蝙蝠」のフランク役を最後に引退したのですから、実に40年もの間オペラに関わっていたと云う事になりましょう。
二期会オペラのメジャーである自主公演の舞台を踏んだのが1967年から始まったモーツァルトシリーズで、とりわけ1968年公演「ドン・ジョヴァンニ」は「マゼットの想い出」で述べたように、私の一生の想い出に残る公演でした。
モーツァルトシリーズは「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」「魔笛」と四大オペラを全てに出演しましたし、その間色々な方々に懇意にして頂き、随分勉強にもなりました。
「ドン・ジョヴァンニ」で散々お世話になった故大橋国一さんが三井記念病院に入院した時、赤坂「有職」のチマキ寿司が食べたいと云うので、買い求めて伺いましたが、あの時美味しそうにチマキ寿司を食べた大橋国一さんの姿を未だに忘れる事はできません。
また故立川澄人さんの事は「我らがターチャン」でもお話した通り、実に長い間公私に渡ってお付き合い頂きました。立川さんが主催するゴルフコンペ「東名シースルー会」のメンバーだった元フジテレビディレクター藤田洋一さんのお嬢さんが私の弟の息子の嫁になり親戚になったのも、考えてみると立川さんの粋な計らいだったのかも知れません。
伊藤京子さんもモーツァルトシリーズの他に色々お付き合いがありました。「メリーウイドウ」のハンナは立川さんとのコンビ随分楽しい舞台を踏ませて頂きましたし「電話」ではルーシー役でお付き合い頂きました。
オペラの舞台では普通、腕時計などは外すものですが「電話」の時にうっかり腕時計を外して舞台に出てしまい、時計が無ければ成り立たぬ芝居を苦労して演じた想い出は、今思いだしても冷や汗ものです。
1971年から始まったのが畑中良輔、若杉弘のコンビで立ち上げた東京室内歌劇場の公演でした。「テレジアスの乳房」「真夏の夜の夢」「賢い女」「新説カチカチ山」「人買い太郎兵衛」「白雪姫」1988年の「脳死をこえて」迄現代物、創作物のオペラを手掛けられたのもこの団体が存在したお陰でしょう。
数多くの二期会オペラに出演してきましたが、その中でも特に記憶に残るのが、佐藤しのぶさんがデビュー間もない「トスカ」の公演と1995年プッチーニ三部作を一挙に上演した「ジャンニ・スキッキ」でしょう。
佐藤しのぶさんは、私が彼女の師匠、島田和子さんとも知人だったので思い入れが強く、デビュー役「メリー・ウイドウ」のハンナで演出家、栗山昌良氏の演出上の注文に挫けそうになった彼女を励ましたのが出会いでした。
彼女とは「蝶々夫人」「トスカ」とデビュー当時矢継ぎ早に共演したのも何かの縁だったのでしょう。それにしても「トスカ」の終幕、サンタンジェロ城からダイビングする幕切れは感動的でした。この「トスカ」はNHKTVでも放映されています。
1995年上演されたプッチーニ三部作で私は「ジャンニ・スキッキ」に出演しました。指揮はピエール・ジョルジョ・モランディ、演出中村敬一、ジャンニ・スキッキは直野資。
このオペラはジャンニ・スキッキと彼に絡むアンサンブルといった様式を備えた作品で、まさにチームワークが必要とされるプッチーニ唯一のコメディですが全編僅か1時間程の上演時間のため、立ち稽古は常に通し稽古の形で行われましたので稽古が終った時の充実感は他のオペラよりも遥かに強いものがありました。まさに全員オペラと云えましょう。


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